新田地区の成立と教育文化

足立風土記編纂委員
足立区郷土博物館特別専門員
安藤 義雄

1.川と文化
2.荒川の西遷(荒川改修工事の歴史)

荒川の系譜 入間川 荒川 荒川 隅田川
荒川放水路 荒川
  1. 寛永6年(1629)、荒川の流路熊谷久下村で締切り、
  2. 水路を開削して和田吉野川に荒川の水を押し込み、入間川へ本流を流す。
  3. 熊谷で切られた荒川は水量が減少、「元荒川」となる。
  4. 熊谷以降の入間川は荒川となる。
  5. 新河岸川(古くは内川)と共に関東平野の中心地川越周辺と江戸の水運発達する。

3.鹿浜新田の開拓       〔巳待講は「巳のはなし」も参照して下さい〕

巳待講(新田稲荷神社)

4.東京府志料(明治5年)に記された鹿浜新田
5.新田地区の産業として記録されたもの
6.新田小学校の開設
7.荒川放水路の開削
8.これからの新田
おことわり:文書中、古文書の漢数字は読みづらいため、算用数字に変換してあります。
(1998年10月17日 足立区立新田小学校創立50周年記念事業 記念講演 「新田地区の成立と教育文化」 講師 安藤義雄先生 講演レジメを補筆 2000年4月)


巳のはなし

安藤義雄

 今年は辛巳(かのとみ)である。巳に蛇が当てられ「へび歳」だから、女性は「へび歳生まれ」と言われるのを嫌う。蛇は執念深いと思われる。獲物を狙ったら放さない、執拗に追い、鎌首をもたげる。

 小学生の頃、夏休みになると山形の五色温泉の湯治場で母親と長逗留した。山の中で子供の遊び場もないから、毎日小さな蛇の子を追っかけて遊んだ。

 ある日、大きな縞蛇が兎を呑んでいる場面に出会った。兎が少しも慌てず静かに呑まれていくのが何とも不思議な光景で、その兎の赤い目が忘れられない。蛇は獲物を頭から呑むというが、兎が下半身呑まれた時に出会ったのである。

 驚いて見ていたものの怖くなり、一目散に走り旅館の番頭に知らせた。番頭は麺棒を持って現場に駆け付け、探すとすぐに大きな腹をした蛇を見つけた。蛇も余り動けない状態で捕まり、番頭の麺棒で逆さにこき上げられて兎を吐きだした。番頭はこの蛇と兎をぶら下げて宿に戻ると、その夜は兎汁と蛇飯を作って部屋に届けた。母親はパニックになって悲鳴を揚げ、番頭は恐縮して下がった。母は蛇歳だったし、私は兎歳である。かくして、翌年からは塩原温泉に変わった。

 しかし、蛇は神のお使いであるから、毛嫌いしては申し訳ない。巳は弁才天、蛇で象徴される。弁天は弁才天と書けば学問、音曲、芸能の神、弁財天と書けば蓄財の神である。弁財天の方は穀物神で福の神の宇賀神でもある。鎌倉のは銭洗弁財天、不忍池弁天堂は弁才天である。江ノ島の弁天様はヌード美人で有名。琵琶を弾いて艶かしい。かくかように、弁天様というと色っぽい神様のように思われがちだが、もともと天部に属す仏教の守護神。護国寺の観音堂須弥壇の裏に安置してある八臂の弁才天は、身を鎧に包み八本の手はそれぞれに武具を持つ。

 本来はインドの河の神。仏教の守護神となってから吉祥天とともに美女に化け、鎌倉期から琵琶を抱かえて芸能神となり、ついにはヌードにまでなった。裸で稼ぐのは女優が写真集を出すのと同じである。やはり河の神様であってほしい。

 巳−蛇−弁才天とくれば、巳待講。己巳(つちのとみ)の日に弁天を祭る講である。今年の初巳は1月6日。川の神様だから、洪水に悩まされていた地域には巳待講があった。足立区では新田1丁目稲荷神社境内に、貞享3年(1686)9月24日の巳待講の供養碑がある。

「足立史談会だより」 第154号 平成13年1月15日発行より転載