新田地区の成立と教育文化
足立風土記編纂委員
足立区郷土博物館特別専門員
安藤 義雄
1.川と文化
- 人間は、川との共存で栄えた。文明は河川沿岸に開け、文化は河川を利用して発展した。人間は河川なくしては生きられない。この共栄の原則を無視したために、災害が多くなった。そこに不幸がある。
- 河川の氾濫・洪水は、経済性追求の河川工事で決壊を招いているため。人間は利口だが小賢しい。一人よがりで傲慢。河川には河川の立場があり、性質があり、好みがある。川は生き物なのである。それを満足させれば河川は美しく、穏やか。河川は水の流れだけでなく、植物・動物、さまざまな生物の集合体。水なくして生物は生きられないことを知っていながら河川を汚す。汚れた河川に背を向け、環境の悪化に目をそむける。愛情のない無理じいと、邪慳。河川問題解決のキーワードは人間自身にある。
2.荒川の西遷(荒川改修工事の歴史)
荒川の系譜 入間川 荒川 荒川 隅田川 荒川放水路 荒川
- 寛永6年(1629)、荒川の流路熊谷久下村で締切り、
- 水路を開削して和田吉野川に荒川の水を押し込み、入間川へ本流を流す。
- 熊谷で切られた荒川は水量が減少、「元荒川」となる。
- 熊谷以降の入間川は荒川となる。
- 新河岸川(古くは内川)と共に関東平野の中心地川越周辺と江戸の水運発達する。
3.鹿浜新田の開拓
鹿浜(ししはま)に現存する板碑(いたび)を調べると
(板碑)
- 正和元年(1312)3丁目宝蔵寺 元応2年(1320)4丁目高橋家 元享2年(1322)同家 嘉暦2年(1327)同家 嘉暦2年(1327)宝蔵寺 元徳3年(1331)1丁目長楽寺 正慶2年(1333)同寺 貞和5年(1349)1丁目小宮家 応安4年(1371)長楽寺その他多数 開発時代を知る手係り
- 当村(鹿浜村)開発の民27人ありて今鈴木大谷などを氏とするもの其子孫なりと云(「新編武蔵風土記」)
- 天保9年(1838)12月 中村八太夫代官所余業調査
- 高1085石9斗余 家数192軒 人別1025人 髪結渡世1軒 職人6軒
- 文政10年(1827)の書上げに居酒屋6軒 髪結1軒 質屋7軒あり、天保9年になし
- 鹿浜新田は大里郡上吉見領辺より庄左衛門、三郎兵衛など云民来りて開発すと云、されど其年代詳ならず、元禄の改に初てこの村名を載たれば其以前に開けしこと知るべし。家数15軒・・・水旱(すいかん・水害と旱魃)共に患あり・・・(風土記)
- 天保9年の中村八太夫代官所余業調査
- 高19石5斗余 家数34軒 人別192人 居酒屋2軒 職人4軒
- 鹿浜村の社寺
- 氷川社(上・下)2社、末社三峰社1社、八幡社2宇、弁財天社、神明社、第六天社、稲荷社、宝蔵寺(妙見堂)、長楽寺(薬師堂)、教円寺、慈眼寺、阿弥陀堂、常楽寺、大乗寺、南泉寺、地蔵院
- 9社9ヶ寺で、1村1社1寺からすれば鹿浜村は寺社が非常に多い。これは何を意味するか。
- 鹿浜新田の社寺
- 稲荷社(村持ち) 寺なし
- 1社0寺 (妙喜庵は風土記になし)
〔巳待講は「巳のはなし」も参照して下さい〕
- 貞享3年(1686)の巳待講(みまちこう)がかたるもの
- 講中 茂出木久兵衛 晝河喜兵衛 長嶋作兵衛 臼倉伊兵衛 瀧本勘左ヱ門 横田四良兵衛 嶋村武兵衛 鈴木亦兵衛 坂村杢兵衛 (兵衛が多いのがきになる)
- これらの人々が荒川の河原を開発した。河原だからすぐに洪水になる。
- 巳待は己巳(つちのとみ)の日に弁天・水神を祭り災厄防除を祈るものである。
巳待講(新田稲荷神社)
4.東京府志料(明治5年)に記された鹿浜新田
- [土地]形勢 鹿浜村に同じ(平坦にして低し)広袤(こうぼう)
- [戸口]戸数34戸 内僧侶1戸(妙喜庵か)平民33戸 人口224人 内男106人女118人
- [神社]稲荷神社 村の鎮守なり、社地221坪
- [仏寺]妙喜庵 真言宗湯島霊雲寺末 開山源勝 境内1788坪租税地
- [田野]畑13町5段5畝29歩 土性 砂交黒土
- [歳額]正祖金22円97銭3毛 雑税金7円33銭9厘1毛
- [産物]大麦 70石価金116円66銭 小麦20石価金100円 黍15石価金30円 大豆16石価金53円33銭 小豆2石5斗価金10円 青芋80荷価金32円 牛旁2000把価金20円 三葉芹3000把金10円 菜種35石価金218円75銭 藍600貫目価金250円 萱2000把価金100円
5.新田地区の産業として記録されたもの
- 江北村として煉瓦生産 下川馬次郎(宮城村)小泉弥吉(小台村)小宮長次郎(鹿浜村)
- 蚕卵紙 茂出木久次郎(第1回内国勘業博覧会出品・明治10年8月)
- 飯桶 180円(生産) 長谷川安五郎(同右)
- 蚕種 300枚 売額225円 茂出木久次郎(同右)
- 蚕繭(春)20石 500円 松下忠蔵(同右)
- 繭 春蚕黄 桑葉飼育 茂出木兼次郎(第2回内国勘業博出品・明治14年)
- 煉化石(瓦)(江北村) 茂出木久次郎(第3回内国勘業博出品・明治22年)
- 他に江北村として、浅香菊次郎・小泉伊三郎・千葉勝次郎(江北村煉化製造所)
- 繭 (江北村)小泉圭造 清水謙吾 堀内弥四郎 阿出川国吉 茂出木兼次郎 松下源蔵 松下藤八郎 茂出木栄蔵 茂出木庄蔵 松下忠蔵
- 明治12年7月11日付、東京府勘業課員報告
- 「…南足立郡鹿浜村新田の如きは、荒川縁にして桑樹に適し農間養蚕の良業なるを知り該業に従事する者多し、遠からずして殆ど全村に及の景況なり。此旨報告す」
- 明治13年『農事景況報告書』…「茂出木久次郎、松下忠蔵養蚕勉励の成跡」と題して功績を讃う。(概要)
- 新田は180年前に鹿浜村から分離した所で、当時は100人たらずだったが沿岸が広いので次第に人口も増えたが夏秋の間に水害を被る為に農耕はうまくいかず、菅茅刈って蓆を織り或は佃魚をなして僅かに生計を営む者が多い。同村の茂出木久次郎、松下忠蔵の2人は痛くこれを憂いその貧困を改善しようと、たまたま生糸の輸出が最高と知り、明治5年、2人は土地が桑の木に適していたため、養蚕を試したところ飼育出来たので、久次郎は桑苗6万本を購入して桑畑を開き、その苗を村民に与えた。しかし、村人はこれを顧みず、或は植え或は捨てた。久次郎意に解せず7年の春、教師を雇って蚕紙を作ったが大失敗して村人の笑い者になった。その失敗に挫けず養蚕をすすめたが、成功せず資本も働き手も失い、教師も辞した。忠蔵もうまくいかず、困ったがそれにも屈せず東西に養蚕の宿老を訪ねて実際に学び研究を重ね、久次郎を説得し、9年、久次郎は遂に決意して数十坪の蚕室を建て、聞き知った方法で飼育しやっと大量の収穫を得た。その後は着実に事業が進み、関心を持ってきた村人を誘って畑を貸し桑を与えて各自助け合うようにしたため、200人の村人中半分は養蚕に従事するようになった。数年を経ずして全村挙げて従事するだろう。その結果一村やや余裕ができた。したがつて、村人は相談して児童のために小学校を建てようと僅かな戸数で現に毎月拾数金を醵積(きょせき)(寄附金を積立)しているという。これ皆2人の特志に基づくものでその功決してすくなくない。
- 第3回内国勘業博覧会に10人が繭を出品している。
6.新田小学校の開設
- 明治7年6月、第4番公立小学校新井学校の5番分校が薬王院に開設。11月独立し第10番公立小学沼田学校。
- 同7年6月、第4番公立小学校新井学校の6番分校が宝蔵寺に開設。11月独立し第12番公立小学鹿浜学校。
- 同16年2月、鹿浜小学校新田分校が妙喜庵に開設、同25年6月独立新田尋常小学校。33年10月校舎新築した。この資金は養蚕で貧困から脱却した村人たちの積立金である。
- 同22年5月、沼田、鹿浜、鹿浜新田、加々皿沼、高野、谷在家、宮城、小台、堀ノ内の9ケ村が合併して江北村となり1村1校の原則で村内の学校の統合が図られた。
- 同37年4月、沼田尋常小学校・鹿浜尋常小学校・押部尋常小学校・新田小学校の4校が合併し江北尋常小学校となり、新田小学校は新田分校となる。当時、1学年男女10人、2学年男女13人、3学年男女12人、4学年男女13人、計48人で、5、6学年は本校へ通学。
- 昭和23年4月、再び独立して区立新田小学校となる。
7.荒川放水路の開削
- 荒川は読んで字の如く荒れる川であった。江戸市中の水害は慶長から安政までに20回記録され、明治になってからも、11年、18年、22年、29年、35年、40年、43年と続いた。
- 明治43年の水害は記録的な大水害であった。8月10〜24日の間、連続豪雨、六郷川決壊、荒川決壊、利根川決壊、綾瀬川決壊、関東河川全部氾濫、荒川の洪水で千住〜本所・深川・浅草・下谷等水没した。
- 明治44年、荒川放水路開削事業決定、用地買収に入り、大正2年から開削開始。
- 新河川敷用地からの移転、江北村690戸、西新井村65戸、千住町273戸、綾瀬村274戸、計1302戸、総面積1万4289畝11歩(42万8681坪、141万4647u)
- 工事担当 内務省東京土木出張所 設計 内務省技監 青山 士(あきら)
- 「新川の地勢を通観し、天災地殃を顧慮し、人意を窺ひ、而して工費に制せら、多年の時日を経て不朽の大業を成就せんとするに当り、其の方針を決定するは蓋し成功の第一歩たると共に至難の業ならずんばあらず」(『荒川下流改修工事概要』大正13年10月刊)
- 大正2年買収した
- 土地 1094町8畝13歩(328万2037坪、1083万722u)
- 家屋 5万6636坪(18万6900u)
- 最終的に方水路の用地は、329万4140坪(1087万662u)に達す
- 移転した神社23社(移転後合祀して9社)寺院13ケ寺
- 道路の寸断ケ所に橋(足立区内)
- 江北橋(木桁)幅7.2m 長さ441.4m 大正14年(工費?)
- 西新井橋(木)幅6.5m 長さ439.4m 大正11年(工費760万円)
- 千住新橋(鋼板)幅7.2m 長さ452.7m 大正13年(工費1292万円)
- 鉄道の寸断ケ所に路線変更・鉄橋架橋 常磐線 東武線 京成線
- 大正13年10月1日 浅草(現業平橋)〜西新井間電化 小菅・五反野・梅島の3駅開業
- 通水式 大正13年10月12日 首相・農相・内相・市長列席で通水式 後日天覧
- (6月千住新橋の完成で方水路に通水開始していた。)
- 竣工 昭和6年3月工事竣工 水門工事 河口護岸工事がおくれていた。
8.これからの新田
- キーワードはリバーサイドをどう生かすか。国も力をいれている。
- 地域がよく纏まってきた伝統を、守っていきたい。
- 新しい町づくりの協力体制を、そして全員の参加を、
- いちはやく開発してしまったところは、今どうしようもない。新田は最も新しい都市への考え方と技術でこれからの可能性が無限にある。
- 佃島ピアウエスト 関屋アメージング・スクエア みらいよこはま21を参考に。
- 早くから生涯教育都市宣言をした掛川市では、いかに地域をよくするかを、学習の目標にして市民が学習を重ね、その一つが新幹線の駅を造ること、ということになり、どうしたら駅ができるかを、また、皆で学んだ。意見の出し合いだけでは実現できない。意見をもとに皆で学び実現に向う姿勢が必要。
おことわり:文書中、古文書の漢数字は読みづらいため、算用数字に変換してあります。
(1998年10月17日 足立区立新田小学校創立50周年記念事業 記念講演 「新田地区の成立と教育文化」 講師 安藤義雄先生 講演レジメを補筆 2000年4月)
安藤義雄
今年は辛巳(かのとみ)である。巳に蛇が当てられ「へび歳」だから、女性は「へび歳生まれ」と言われるのを嫌う。蛇は執念深いと思われる。獲物を狙ったら放さない、執拗に追い、鎌首をもたげる。
小学生の頃、夏休みになると山形の五色温泉の湯治場で母親と長逗留した。山の中で子供の遊び場もないから、毎日小さな蛇の子を追っかけて遊んだ。
ある日、大きな縞蛇が兎を呑んでいる場面に出会った。兎が少しも慌てず静かに呑まれていくのが何とも不思議な光景で、その兎の赤い目が忘れられない。蛇は獲物を頭から呑むというが、兎が下半身呑まれた時に出会ったのである。
驚いて見ていたものの怖くなり、一目散に走り旅館の番頭に知らせた。番頭は麺棒を持って現場に駆け付け、探すとすぐに大きな腹をした蛇を見つけた。蛇も余り動けない状態で捕まり、番頭の麺棒で逆さにこき上げられて兎を吐きだした。番頭はこの蛇と兎をぶら下げて宿に戻ると、その夜は兎汁と蛇飯を作って部屋に届けた。母親はパニックになって悲鳴を揚げ、番頭は恐縮して下がった。母は蛇歳だったし、私は兎歳である。かくして、翌年からは塩原温泉に変わった。
しかし、蛇は神のお使いであるから、毛嫌いしては申し訳ない。巳は弁才天、蛇で象徴される。弁天は弁才天と書けば学問、音曲、芸能の神、弁財天と書けば蓄財の神である。弁財天の方は穀物神で福の神の宇賀神でもある。鎌倉のは銭洗弁財天、不忍池弁天堂は弁才天である。江ノ島の弁天様はヌード美人で有名。琵琶を弾いて艶かしい。かくかように、弁天様というと色っぽい神様のように思われがちだが、もともと天部に属す仏教の守護神。護国寺の観音堂須弥壇の裏に安置してある八臂の弁才天は、身を鎧に包み八本の手はそれぞれに武具を持つ。
本来はインドの河の神。仏教の守護神となってから吉祥天とともに美女に化け、鎌倉期から琵琶を抱かえて芸能神となり、ついにはヌードにまでなった。裸で稼ぐのは女優が写真集を出すのと同じである。やはり河の神様であってほしい。
巳−蛇−弁才天とくれば、巳待講。己巳(つちのとみ)の日に弁天を祭る講である。今年の初巳は1月6日。川の神様だから、洪水に悩まされていた地域には巳待講があった。足立区では新田1丁目稲荷神社境内に、貞享3年(1686)9月24日の巳待講の供養碑がある。
「足立史談会だより」 第154号 平成13年1月15日発行より転載