新田稲荷神社
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現在の新田稲荷神社 2001年3月撮影 |
- 今から304年前の「元禄10年9月」に建てられました。カッコ内の出典は、「上野東照宮組合明細・二」明治13年、東京府編。
- お祭りしてある神様は「ウカノミタマノミコト(倉稲魂命)」。カッコ内の出典は同上。
- この神様には五穀(米、麦、あわ、ひえ、豆)を良く実らせる力(ちから)がある。転じて、一般的に商売繁盛の神様と云われている。
- 昭和35年以前の祭日は、10月15日。今は9月の日曜日。
- 「元禄12年(302年前)9月に、はじめてお祭りが行われた」。カッコ内の出典は、「神社取調書・書上帳・その二」明治5年、東京府編。
- 本殿は、昭和56年、拝殿は、昭和38年につくられている。
- 境内(けいだい)西の方に弁才天があり、今から315年前(貞享3年)につくられたもの。これは新田最古の石造物なので大切にしてほしい。
庚申塔 |
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弁才天 |
妙喜庵
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現在の妙喜庵 2001年3月撮影 |
- 今から300年位前(元禄初年)に「源勝」と云うお坊さんが開山した。カギカッコ内の出典は、「東京府志料」明治7年、東京府編。
- 本尊は、地蔵菩薩(ぼさつ)、協侍(きょうじ)は弘法大師です。
- 旧家の菩堤寺で、仏事は、対岸の清光寺が行っている。
- 筆子塚(ふでこづか)→寺子屋の生徒が建てた先生のお墓で、173年前(文化11年)に亡くなっている。
- 新田小学校発祥の地碑(明治16年2月1日開設)がある。
- 宝きょう印塔は、250年前(宝暦元年)に、豊島区染井から移ってきて、再び建てられた。
- 清光寺にも、新田の人々が建てた231年前(明和7年)の宝きょう印塔がある。新田の人々は、宝きょう印塔を二つも残している事から、先祖の苦労が感じられます。
野新田の桜草
- 昔の新田2丁目あたりは、萱野(かやの)と呼ばれた原っぱで、秋になると背の高さ程の植物が生い茂っており、10月下旬から11月にかけて刈り取られたので、春になると桜草があたり一面に咲き乱れていた。
- 野新田の桜草は、野生種で浮間紅と同じものであった。
- 「夏目漱石は、明治40年4月28日に新田を訪れ日記に単語をメモしているが、その中に桜草も書き残している。」出典は、岩波書店版、「夏目漱石全集、第19巻」平成7年刊による。
- 漱石は、上記を小説「慮美人草」に「萱野へ行って桜草を取って、王子へ廻って汽車で帰ってくる」と書いている。王子へ行くためには、当然野新田の渡しを渡る想定と思う。
- 新田の桜草は、小説に書かれるくらい当時有名であったと考えられる。
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浮間 紅 (2001年4月14日浮間にて購入) |
野新田の渡し跡
- 昭和16年10月31日以前に、今の新田橋の所にありました。
- 王子方面へいく時や、農作物を市場(神田、駒込)へ出荷する時に使われました。
- 春ともなれば、荒川堤の五色桜を見に行く客を乗せ、西新井大師へお参りにいく客を乗せました。昔、大師は3月と4月の21日の縁日が特ににぎわった。
- 東京府と云っていた時代は、王子、草加線と云う幹線でした。時代は変わっても、人の考え方は変わらないらしく、今でも新田の主要な出入口です。
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出典 新田小学校創立30周年記念誌 |
野新田河岸
- 昭和初期まで、川越と千住を結ぶ船の交通がありました。
- ここは、それらの船の港で、新田橋の下流にありました。
- 種々の物資を積んだ船が、常時20〜30曹も停泊していました。
- 今から250年前(寛延3年)に河岸が開かれたようです。
- 隅田川の川渕では、千住節(民謡・舟歌)が聞けました。どの船頭も美声で大声を出して唄っていました。南風が少し強い日には、川渕から100m程はなれた所でも聞くことができました。
♪ ハー 千住橋戸は エーいかりかつなか
上り下りの船とめる
アイヨノヨトキテ 夜下りカイ
キタサ ホイサ キタサ ホイサ
ハー 千住出てから エーまきのや(*)までは
さおも ろかじも 手につかぬ
アイヨノヨトキテ 夜下りカイ
キタサ ホイサ キタサ ホイサ
※まきのや→千住桜木町のあたり
筏
- 上流の秩父や御岳山(みたけさん)方面から流して来て、千住の材木問屋を目ざして流して行きました。
- 筏の上には、“トバ”と呼ばれた小屋があって、ここで筏の人がお茶を飲んだり、食事をしたり(休息)、風よけにしたりして使っていました。
- 筏の上には、あちこちに石が乗せられていて、「おじさん、石をくれ!」と大声でどなると、石を投げてくれました。石の文様(もんよう)が大変美しく、子供の宝物でした。
- 上の話は、昔の新田ののどかさを感じさせてくれる、“ホッ”とする話です。
水神
- 昭和10年頃まで、毎年7月1日の夕方にお祭りが行われていました。
- 出席者は、3丁目の人達で、毎年キュウリの酢の物がふるまわれました。
- 昔の新田は、特に水との係わりが深かったので、水に関する一切のお願いを水神に願っていたものと考えられます。
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水神 |
地蔵
- 今から270年程前(享保9年−14年)に、毎年11月に一体づつ造られたもので、当初六体あったらしいが、今では五体になっている。
- 子供を思う親の気持ちは今も昔も変わらないらしく、今でも多くの人々にお参りされている。
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地蔵 |
庚申塔
- 本来、昔の小字(こあざ)(今の○丁目)ごとに一体つくられたもののようです。
- 新田には、二つの小字があったので、従って二体あります。
- 1丁目のものは、245年前(宝暦6年)。3丁目のものは、251年前(寛延3年)のものです。
- 下部の三猿は、“他人の悪いことを、見たり、聞いたり、話したりしない”と今でも語りかけてくれているものと私は考えます。
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3丁目の庚申塔 |
水塚(みづか)
- 土を盛り上げて、その上に家が建てられています。洪水の浸水から家を守るための生活の知恵と考えます。
- 新田では、水塚の事を、地形(ぢぎょう)(新田地方の方言で、ぢんぎょ)と呼ばれていました。
- 各家では、洪水の時、足になる船を2〜3槽用心のために備えておりました。
- 土くずれ防止のため、木や竹を植えたり、レンガを積み上げたりしていました。
- 明治43年以前の水塚が、今も十ヶ所程隅田川寄りに点在します。
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新田3丁目付近 |
道しるべ(地区外の史蹟)
- 北区豊島8丁目、豊八稲荷神社境内(東、やしんでん道)
- 農業公園横、山王橋手前の道ばた(鹿はま新田船渡有)
- これらの道しるべをじっと見ていると、この道しるべに助けられ一息ついている往時の旅人の姿が目に浮かぶようです。
参考文献
本稿は、98年度に実施した新田小学校PTA家庭教育学級、「新田の旧跡をめぐる」著者 大久保幸治、平成10年12月5日刊の加筆・訂正版です。