新田と桜草


新田に於ける桜草の文化史

大久保 幸治 著

平成11年11月20日刊(1999年)

1.新田に於ける群落の発生


2.最古の文献


3.最多に引用される文献


4.明治期


5.大正期


6.岩淵水門


7.絶滅


8.参考文献

注 本書を引用又は転載する場合は、題名と著者名を必ず明示して下さい。


野新田の桜草

 野新田の桜草とその文化史

郷土史研究家 大久保幸治 著

荒川流域は桜草の自生地

写真1=日本桜草(浮間ヶ原) 野新田の桜草もこれと同じもの(筆者の庭にて写す)
 サクラソウ(江戸期長崎の出島に来たシーボルトの名にちなみプリムラ・シーボルディー)の栽培が始められたのは江戸初期といわれ、荒川流域に咲いていた野生の桜草を持ち帰り、栽培したのが始まりと一般的にいわれています。「原色趣味の園芸」(松崎直枝著・昭和十七年刊)には「隅田川上流の尾久・野新田等に野生していたものを採集し」改良したものと書かれています。

 荒川流域は、桜草の自生地として、人々によく知られていました。すなわち、尾久・千住・野新田・浮間(写真1)・戸田・志村等がそれです。「これらの地のふる里は秩父の山々で、洪水によってその種子が流れつき、第二次的な群落を作ったもの」(「北区百話」北区郷土研究会編=昭和五十七年刊=を要約)といわれています。植物学者で有名な牧野富太郎も「桜草、水に流れて種子が来し」の俳句(「牧野植物一家言」昭和三十一年刊)を残しています。しかし、上記の地域は都市化の波と共に、下流から上流へと時代と共に姿を消して行き、今では浦和市にある田島ヶ原の自生地が、天然記念物として保護されています。

新田は江戸時代から桜草の名所

 さて、野新田の桜草ですが、“野新田といえば、桜草の名所”といわれるくらい有名でありまして、その自生地として江戸期より種々の文献に紹介されています。

 筆者が見つけた最古の文献は、有名な柳沢吉保の孫信鴻の「宴遊日記」(日本庶民文化史料集成第十三巻芸能記録二所収)で安永十年三月七日の條に「土堤の下は野新田に続きたる広野、桜草所々に開き、ノウルシやつぼくさがあたり一面にあった」とあるのがそれです。一方“飛鳥山の桜の花見客が通過する野新田渡しで、桜草を売っていた”という伝承は、筆者の知る範囲内で、これより三十年程さかのぼれます。その後本草学(植物学・薬物学)者で有名な岩崎灌園著の「武江産物誌」(文政七年)に「桜草・紫雲英(れんげそう)…戸田原・野新田・尾久の原・染井植木屋」と紹介されています。しかし、何といっても桜草史で一番有名な文献といえば、「江戸名所花暦」(岡山鳥著・文政十年)で、春の部・桜草の項に

日本桜草と白魚
「王子村と千住とのあいだ。今は尾久の原になし(筆者注・昔は尾久の原にも桜草が自生していたが、現在は消滅しているの意)。尾久より一里(約3.9Km)ほど王子のかたへ行きて、野新田の渡(わたし)(筆者注・今の新田橋の所が、野新田の渡し場跡)といえるところに、俗よんで野新田の原というにあり。花の頃は、この原一面朱(あけ)に染如(そむごとく)にして、朝日の水に映ずるがごとし。また此川に登り来る白魚(しらうお)をとるに、船にて網を曳き、あるいは、岸通りにてすくい網をもって、人々きそいてこれをすなどる。桜草の赤きに白魚を添(そえ)て、紅白に土産(いえつと)なりと、遊客いと興じて携(たずさ)えかえるなり」

と、全く素晴らしくきれいな文書で当時の新田を描写しています。その他「武江遊観志略」、「みやびのしおり」、「東都遊覧四時早鑑」、「新編武蔵風土記稿」等にも野新田の桜草が紹介されています。

新田の桜草の末期

 明治時代になると、文明開化で世の中が変わってしまったらしく、文献が少ないのですが、それでも夏目漱石は、「虞美人草」の中で「荒川(堤)から茅野(今の新田二丁目)へ行って桜草を取って王子へ回って汽車で帰ってくる」と書いています。彼は、この小説を書く下準備に新田を訪れているらしく、明治四十年四月二十八日の日記に「荒川堤の桜・かやの原・野うるし・桜草…」等の単語をならべて書き込んでいます。(日記の事は、鷲谷いづみ氏の講演「荒川の野草…さくらそう」に拠って知る)。その他「桜草の栽培」佐野登著(園芸の友三年六号所収)や「桜草」三好学著(太陽十六巻八号所収)等に野新田の桜草が書かれています。

 大正時代になると、世の中が落ちつき、旅行ブームがあったらしく、旅行案内書にしばしば野新田の桜草がふれられています。代表的なものは、田山花袋著「東京の近郊」(大正九年)で「野新田の辺(あた)りの桜草は、昔から名高かった」とあります。その他「郊外探勝その日帰り」、「東京郊外めぐり」、「趣味と栽培、四季の園芸」、「大正五年版・南足立郡誌」、「園芸三十六花選」、「武蔵野巡礼」、「桜草原野の保存の必要」、「近郊探勝日帰りの旅」、「実験花卉(き)園芸・上巻」、「武蔵野の草と人」、「東京近郊写真の一日」、「近郊探勝其日帰りと一夜泊り」、「楽しい一日二日の旅」、「天然記念物解説」等にも野新田の桜草がふれられています。

 昭和に入ると、新田に桜草が減少し、行楽地が上流に移ったため、若干の文献しか見当りません。「和洋桜草の栽培」(松野孝雄著・昭和二年)には「野新田の渡し附近の葦(あし)間には、今でも(桜草を)多少発見する事が出来るが、其内には此辺りの土は、皆煉瓦(れんが)に焼かれて、後かたも無くなることであろう」と、新田に於ける桜草の末期の様子を描写している。その他「実験プリムラ栽培」、「郷土研究東京の植物を語る」にも新田の桜草が出て来ます。
桜草の生育条件と新田

 次に桜草の生育条件について「北区百話」(北区郷土研究会編)を参考にして、新田に当てはめて説明すると
1. 保水力の強い粘土質の土が必要
新田の土は、荒木田土という粘土質の土です。それで、五糎(センチ)程に切った藁と混合して壁土にしたり、新田二丁目の土が、桜のマークを附けた小菅の集治監煉瓦の原土になったり、更に自家でお茶を作った時、煉瓦で即席の炉を築くが、この時湿地の土に水を加え、五糎程に切った藁少々を混合して、モルタルの代わりにも使われていました。それに茅の落葉や秩父の山々で腐った木の葉や土砂が流れて来て堆積した茅野の土は、天然の腐葉土であり、したがって保水力がありました。
2. 開花後の増土(ましつち)が必要
俗に“野新田は、かえるの小便”(かえるが小便をしても、洪水になる程低い土地の意)とか、“野新田は、雨が三粒(みつぶ)ふれば大水(おおみず)”といわれるくらいで、昔の新田地区は、毎年のように洪水があり、ひどい時には、一年に三回以上の洪水があったので、上流から洪水と共に運ばれて来た土砂が、自然の作用で増土の役目を果たしていた。
3. 入梅の終り頃日除(ひよ)けが必要
茅野には、カヤ、ススキ、ヨシ等の背が高くなる植物が自生しており、天然の日除けの役割を果たしていた。
4. 休眠期に適当な乾燥が必要
カヤ、ススキ、ヨシ等の落葉が、乾燥を助け、天然の霜除けの役割を果たしていた。
5.「ハンノキ等の種子が落ちて、林にならないように、草刈りをして野焼きが必要」
   (「埼玉の理科ものがたり」同編集委員会編)
茅野(地図1)の茅は、毎年十月下旬から十一月にかけて、茅刈りガマ(写真2)で刈り取られ屋根屋の手に渡り、新田を中心とした十里四方の茅ぶきの屋根に使われていました。つまり茅を刈る時に、ハンノキやエノキ等の苗木や雑草も一緒に刈り取られてしまったので、桜草のために、わざわざ草刈りや野焼きをする必要がなかった。
地図1=「東京府武蔵国北豊島郡王子村」 
明治13年5月測図 2万分の1
@野新田の渡し A茅野(桜草が自生) B足立新田高校
(財)日本地図センター発行
写真2=茅刈りガマ 茅野の茅は、これで刈り取られました。
 以上のように、昔の新田は、上記のむずかしい条件を、ぴったりと備えていたのです。“自然というものは、本当に良くできているものだ”と感心してしまいます。

 貞享年間の新田地区は、茅野新田(新田稲荷神社境内西側にある弁才天の碑に金石文がある)と呼ばれておりました。おそらく、茅があたり一面に生い茂った野原に切り開かれた新田なので、上記のような村名が私称として出来たものと考えられます。その後、茅野は順次畑として拓かれて行きましたが、今の新田二丁目一帯は、茅野耕地(昭和七年南鹿浜町となる)と呼ばれ、最後まで茅が生い茂っておりました。桜草は、この茅と密接な関係にあったので、茅野に自然生えしていて、春になると一重(ひとえ)の桃色の五弁の花を車咲きに咲かせました。それと、実際に栽培して見てわかったのですが、桃花は咲き始めた花より、六日位咲き続けた花の方が、色のうすくなる植物とわかりました。花期は、「野新田の桜草の場合、立春より八十日後(計算すると四月二十五日以後)がみごろでした」(「東都花暦名所案内」天保三〜四年刊、「花みのしおり」忍川舎著・天保四年刊)。また桜草は、突然変異が生じやすい植物であり、「新田には、ごくまれに白い花の桜草が自生していました」(故・野口国太郎氏の話)。

桜草を掘る道具

写真3=野新田の桜草を掘った道具(特別注文して鍛冶屋さんに作らせたもののようです)
 明治末期になると、荒川堤の五色桜が有名になり、お花見に行く人々は、野新田の渡しを渡って行きました。シーズンになると、船を増便させても、お客をさばき切れない程のにぎわいでした。その通り道に、村の子供達が、茅野から掘って来た桜草の根を団子状ににぎって丸めて、道に並べて売っていました。明治四十年頃で一株の値段が一銭五厘から二銭だったそうです。父より聞いた話に「あら、ひどい!その辺に生えている草に値段を附けて売っているんじゃな
写真4=筆者の家で使っていた竹ヘラ
いの!」などと言われるので、恥ずかしくなり二・三人で遠くにかくれて、のぞいて見ながら売っていたと聞いています。それから、「大正十三年頃で一株一銭」(故・長谷川弥重氏の話)、「昭和元年頃で、六株程束ねて三銭」(故・野口正雄氏の話)でした。どういう訳か時代が下がる程、安くなっています。ちなみに、足立区内で桜草を売っていた渡しは、この渡しだけでした。

写真5=レンガゴテ(資料提供・青木豊一氏)一つの道具で、煉瓦ずみと桜草掘りの二役を兼ねられるように、業者に特別注文して作らせた道具のようです。
 筆者の家には、「代々の人が、桜草を掘る時に使用した」と伝えられる「桜草掘り」と呼ばれる道具があります。(写真3)しかしこれは、鍛冶屋に特別注文して作らせた道具のようで、どこの家にもあったというわけではないようです。「そのような桜草掘りを持たない人達は農具に附いた土を落とす時に使った竹ヘラ(写真4)、「園芸用の移植ゴテ」(茂出木繁次氏の話)、煉瓦を積み上げる時に使った煉瓦ゴテ(写真5)を使用して、桜草を掘りました。煉瓦ゴテは、桜草を掘るのにも適していました」(青木豊一氏の話)。「王子・隅田川紀行(清華閣襍編・乙集第三十七冊所収)」著者不明、天保十一年三月十七日の紀行文(国立国会図書館蔵)に「小刀(こがたな)で茅の根を分けて、桜草を掘ろうとしたが、根が深くて根の多くがちぎれ、思うように採れなかった」とあり、やはり道具が必要だったようです。

野新田の桜草が有名になった訳

 それでは、どうして野新田の桜草が有名になったかを述べましょう。一つには、花暦類や旅行案内書による文献の紹介があります。二つには、毎年春になると、新田周辺に行楽のコースが、にわかに形成されたからです。すなわち、飛鳥山や荒川堤の桜、西新井大師へのお参り(昔の四月二十一日は、近郷近在の参詣人で、大変なにぎわいでした)、鹿浜の虫切りへの治療(桜草狩りは、子供連れの行楽に適しており、特に虫切りへ行った子供の気分転かんに最適であった)がそれで、それらの名所の近くにあった野新田の桜草は、上記と共存共栄の関係を保ち、有名になったのです。これは荒川堤の五色桜の頃の本文の末尾の野新田の桜草が書かれた文献が多い事からも、証明できるのではないかと思います。

 江戸期に「朝日の水に映ずるが如し」と形容された野新田の桜草も、明治中期まではその面影を保っておりましたが、「明治四十二年頃」(前掲の三好学著「桜草」を引用)から、園芸業者や露天商等の乱獲によって、次第に減少して行きました。

 さらに大正十三年には、岩淵水門が完成し、洪水がほとんどなくなったことも桜草の減少に拍車をかけました。すなわち洪水による自然増土がなくなったために、その繁殖能力が失われ現状維持のままの状態になってしまったからです。それから桜草は、友達がいて繁茂していないと、元気がなくなる性質を持っているのも一因でしょう。

 「それでも、大正十二年頃は、茅野の下を見れば、桜草がちらほら咲いていて、新田全体では、まだ多くの株がありました」(母の話)。

そして昭和八年以後になると都市化の波で茅野がなくなり、完全に姿を消してしまったのは残念ですが、貴校(東京都立足立新田高校)の校章や校歌に、野新田の桜草が生き続けているのは誠にうれしいかぎりです。

 最後に、本稿作成に当たり、青木豊一氏、佐藤良徳氏に資料をお見せ頂きました。この紙面をお借りして厚くお礼申し上げます。
(附記・本稿は、「足立史談121号」(昭和53年3月)、新田高校PTA広報紙「明窓59号」昭和62年5月を改稿したものです。)……足立新田高校創立20周年記念誌(平成12年5月発行)所収


東京都立足立新田高校の校章と校歌

校章の由来

 古利根川の流れを治めて、長い間開拓に励んだ足立新田の地に、ひときわ目立って「さくら草」が群生していた。「さくら草」のもつ清楚、根強さ、ひたむきな心をこころとし、本校の発展を願って校章とした。
 三方にひろがる葉は、真善美への限りないあこがれと、実践を象徴し、中心の花は、清楚にしてひたむきな心をしるしとしてすえた。
 日々の生活の中で、この心を私たちの誇りと自覚の象徴とした。


都立足立新田高校 校歌
青木 薫 作詞
高澤智昌 作曲

一、おお広い海を目指して
  おお墨田南へ流れる
     武蔵野は青よりも青
     学おさめ人となり得て
     愛されるさくら草咲く
  素晴らしきはわが母校
  足立新田 足立新田高校
二、おお風は季節傳えて
  おお若葉陽を受け輝く
     武蔵野はすきとおる郷
     学おさめ人となり得て
     美しきさくら草咲く
  素晴らしきはわが母校
  足立新田 足立新田高校
三、おお空よ肥沃な大地
  おお汗よ無限のあこがれ
     武蔵野は千古の歴史
     強い意志たゆまぬ努力
     したたかにさくら草咲く
  素晴らしきはわが母校
  足立新田 足立新田高校


夏目漱石文学碑

 都立足立新田高校(足立区新田2−10−16)の正門を入って、すぐ左手に創立二十周年(平成12年・2000年)を記念して「夏目漱石文学記念碑」が建てられています。前述の「新田に於ける桜草の文化史」「野新田の桜草」にもふれられていますが、夏目漱石がこの新田を訪れ、萱野の桜草を「虞美人草」の一節に取り上げていることから、これを記念して建立されています。
 左の写真は、創立二十周年記念式典(2000.5.20)での除幕式の模様です。

夏目漱石文学碑

「ハヽヽヽ實は袖無の御礼に、近日御花見でも連れて行かうかと思って居た所だよ」

「もう花は散つて仕舞つたぢやありませんか。今時分花見だなんて」

「いえ、上野や向嶌は駄目だが荒川は今が盛んだよ。荒川から萱野へ行つて櫻草を取つて王子へ廻って汽車で帰つてくる」

「いつ」と糸子は縫ふ手を巳めて、針を頭へ刺す。


        虞美人草(明治四十年著)より

漱石と野新田

 明治40年3月、漱石は教職を辞して朝日新聞社に入社した。同4月下旬、最初の新聞連載小説『虞美人草』の執筆に先立ち「荒川堤の桜」や「桜草」など本校附近の風物を見物している。荒川堤の五色桜は米国に贈られ、ワシントン・ポトマック河畔の桜として知られる。日本では衰退したが米国から里帰りした苗木が区内各所に配られ、本校でも校門付近に五色桜が植えられている。また、かつて野新田と呼ばれた本校付近は桜草の群生地であり、本校ではこれを校歌に歌い校章のデザインとしている。