野新田の桜草と三好学博士の話
大久保 幸治 著
三好学(みよし・まなぶ)博士と云えば、荒川堤の桜の研究で有名な東大の先生として知られている。「江北小学校創立80周年記念誌」の180頁によれば、「桜の権威三好学博士が初めて船津(静作)氏に面会されたのは、明治36年4月24日であった。それ以来、毎年の花期には、ひんぱんにいつも払暁(ふつぎょう・夜あけ)に当地に来られ、堤上(高速道路川口線の下にある荒川堤を指す。別名熊谷堤)がまだ雑踏(ざっとう・人ごみ)しない間に、桜の調査を終わり、標本を採集して、帰宅せられるのが常であった」とあります。
ところが、“この先生は、荒川堤へ何回も桜の調査に来ているうちに、いつしか桜と名の付く草花が新田にあるのを聞き、それにも興味を持ってしまいました。その後、その花が衰退の方へ向かっているのを知り、保存の必要性を痛感し、いつしか天然記念物保存運動の指導者になってしまった。”と云う話が残されています。因みに「朝日人物事典」には、この話を裏付けるかのように、「明治39年天然記念物保存の必要性を説き」「著書も多く幅広い」とあります。これによって、先生が初めて荒川堤へ来られてから、3年後でまた桜以外の植物にも幅の広い人とわかり、この話がうなずけるのです。
その4年後の明治43年5月に先生は、雑誌「太陽」(資料提供・佐藤良徳氏)へ寄稿し、「現に野新田の原の如きも、昨年までは、余程沢山繁殖していたものが、今日は余程注意して探さなければ、見つからないような有様である。もしこのまま放置して置いたならば、あたら(惜しくも)東京の一名物も期年(一年)ならずして、その跡を絶つに至りはせぬかと、如何にもけ念に耐えない次第である」と、野新田の桜草が、絶滅する心配と保護の必要性を訴えている事からもこの話が、証明されると思うのです。
その後、大正5年4月25日には、戸川安宅(やすいえ・号は残花)氏と同行して、土合(つちあい)村の深井貞亮氏の案内により、田島ヶ原の桜草を調査し、大正5年に「天然紀念物保存雑紀」、大正7年に「人生植物学」、大正8年に「桜草原野の保存の必要」、大正9年に「天然紀念物調査報告」等を発表して、野新田、浮間、戸田等の桜草自生地の保護を訴え続けています。
それから、大正9年4月25日には、再び調査を行い、7月17日になると、念願の天然記念物に指定され、保護されるようになりました。また昭和8年5月2日には、埼京線指扇駅近くの錦乃原も調査しております。
それにしても、私達が今日田島ヶ原へ行けば、自然生えしている桜草を見学できるいきさつには、決め手になる証拠を欠いておりますが、“野新田の桜草が、保存の糸口になっていた”と云う話が伝わり、筆者もそのように考えましたので、伝承を記録するために本稿を作成しました。(了)
補注:なお、( )内の注釈は筆者が施し、三好博士にまつわる伝承は学兄の青木豊一氏から教えて頂きました。この紙面をお借りして厚くお礼申し上げます。
参考文献
1.「江北小学校創立八十周年記念誌」酒井鋳亮著 昭和29.9.10刊
2.「桜草」三好学著 “太陽”十六巻八号所収 明治43.5刊
3.「新潮日本人名辞典」戸川残花の条
4.「朝日人名辞典」三好学の条
5.「さくらそう通信」さいたま市教育委員会編
イ.「天然記念物調査報告」三好学著 右五号所収
ロ.「桜草原野の保存の必要性」三好学 右九号所収
ハ.「錦乃原桜草」中嶋貞雄著 右七号所収
6.「人生植物学」三好学著 大正7.4大倉書店刊
7.「天然記念物保存雑記」三好学著
“史蹟名勝天然記念物”一巻十四号 大正5.12刊 戸川安宅編所収
8.「土合村桜草自生地」−天然記念物指定当時の史料について−
浦和市市史編纂室編“浦和市史調査報告書”第二号所収
「さくら草」62号 平成14年8月 新田センター刊 所収