桜草絶滅の原因

作成者 佐藤良徳

荒川流域の桜草の名所の多くは明治時代末から戦前にかけて消滅した。その原因について、文献から考察しよう。

1.耕地の面積の増すのと彼等の人の手に掘られて有名な戸田っ原も見る影も無くならふとして居る・・
黒牛生(1910)田島ヶ原の桜草、博物之友、10(71):40−41

2.東京名所の一つに数えられている浮間ケ原の桜草保護については、去年の今頃も本欄に記したが、さすがに土地の人もその必要を感じたと見え、今年は制札を立てて、根から掘り出すのを禁じた。しかし摘むのは禁じていないから、心なき遊覧者がむしるはむしるは。先を争って両手に束を造る。現に一昨日の日曜日のごときは四千からの人出であったからさしも美しい花毛氈もさんざんに荒らされた。次の日曜日には一万人は来るだろうと土地の人は言っているが、この塩梅だとその時分はもうどこに桜草が咲いてるのかと探すようになるだろう。仏造って魂入れずとはこのことだと見物の一人が長大息。
東京朝日新聞 大正7年4月16日

3.河川の改修や、工場の建設等、物質的の勢力が、滔々大河の決する勢ひで進撃して来ると勢ひ此名勝も蠶食されるから、願はくは永久保存に勤めたい。
「趣味の野草」大正7(1918)年 前田曙山

4.これ同地は近時名高くなりし荒川の桜に近きために、花見の人々回覧するもの多く、したがって桜草を根と共に採り去るがゆえなり。
 浮間の原についで戸田の原にてもまた桜草の甚だ少なくなりしはみだりに採る者の増加せるゆえにして、植木屋などの採り去るほかに、一般遊覧人ことに学校生徒の夥しく採るによるなり。予はかつてある新聞に某学校にて桜草採集のため遠足会を催すにつき、生徒各自根堀りの鏝へらの如きものを携うべく言い渡せる由を記せるを見たり。もし事実なりとせば、この如きは天然記念物の絶滅を奨励するものにして、不注意の至りというべし。
無意味または私欲のために欲しいままにこれを採り去るはその忌むべきことにして、ことにその夥しく採集したるものは 、大半途中に遺棄せられ、またたとい持ち帰りて庭園に植うるも、土質その他の関係よりして十分なる生長を遂ぐるは能わざるに於いてをや。
 濫採の結果によりて、東京に接近せる郊外には、今日にては早晩この愛すべき花草の痕を絶たんとするに至れり。荒川沿岸地方中、少々遠き所にはなおこの花草の多く生ぜる原野なきに非ざれども、これとても後には同様の運命に陥るや明らかなり。
 この他になお桜草原野全体を保存する大切なる理由は、土地そのもの現状維持を期するにあり。すなわちこれらの原野にして一朝開墾せられ、田畑に利用せらんか、忽ちにして桜草その他固有の花草は絶滅するに至るべし。これ最も恐るべき変化にして、前に挙げたる濫採によりて起こる変化より極めて直接なり。現に予の知れる桜草原野の比較的完全に今日に残れるものの中にて、しかる土地利用のために次第に消滅せんとするものあり。これあに学問上及び名勝上惜しむべきことならずや。
「桜草原野の保存の必要」      理学博士  三好学

5.桜草の野生地は珍らしいし、東京にも近いため、植木屋や遊覧人、また生徒などが毎年行って、根から持ち去ったからである。かくして名所の一つを都人士自らがなくなしてしまった。(略)
歴史を有する原は既に全部滅びようとした。そこで、桜草は天然に変化の多いもので、植物学上からもこんな土地は保存すべきものだと主張されるようになり、あの妙に長い名をもった会、史績名勝云々とよぶ会が保在区域としたのが一昨年かであった。しかしそれは十分行われてはいない。無智な、都かぶれのした土地の人によって、都人に高く売り付けるために密かに抜き取られているのは遺憾だ。 私が昨年行ったとき、わずかに残った桜草を、まだやっと蕾を出したばかりのを土地の子供が取っていた。「取っていいの。」といってやったら、「今日はおまわりがこない日だ。桜草が欲しけりゃおれんちへアラー。売ってやろうか。」と言っていた。どうにかならないものかしら。
「最新実査 東京から」永渓早陽 大正10年

6.もちろん採取は禁じられている。荒川沿岸はどこでも根を取るのは禁じられているのである。
「最新実査 東京から」永渓早陽 大正10年

7.茅萱や小笹の根にからんで掘りにくい桜草の根もかなり堀って行かれたようだ。
「東京近郊めぐり」河井酔茗 大正11年7月

8.戸田原のサクラソウ自生地にもふれ、明治20年頃までは多少旧態を保っていたが、其の後土地の変化、遊覧者の濫採、商売人の過度の採集のため、今日同地方のサクラソウはほとんど採りつくされたと記す。
三好 学(1920)桜草ノ自生地、史蹟名勝天然記念物調査報告、(12)1−6

9.そのうちにはこのあたりの土は皆煉瓦に焼かれて跡形も無くなることであろう。
 爾来、桜草の名所として有名なのは浮間ケ原であり、続いて荒川の右岸に戸田の原、田島の原がある。(略)浮間・戸田は現在では有象無象が根こぞきむしり取った野で、あの広い原にほとんど影を絶ったといってよい。
「桜草の栽培」松野孝雄 昭和2年

10.遊覧者の増加と商売人の過度の採集等によって、明治の中葉までは旧観を維持していたのが花の影は年ごとに減少して行って、今や江戸時代の名所であった尾久の原の轍を踏んで絶滅に瀕している。(略)
「岩渕町郷土誌」昭和5(1930)年

11.サクラソウが自生していた舟渡付近の土は、荒木田という粘着力の強い良質の粘土で、壁やかわらぶきの際に用いられた。
 大正十二年の関東大震災は、旧市内、とりわけ隅田川下流の下町を中心に数多くの家屋を焼失させた。その直後新しい復興のひびきが、舟渡付近の荒木田土をどんどん採取していった。関東大震災は板橋地方には大きな被害を与えなかったが、かわいい花を咲かせたサクラソウに、間接的な被害を与えた。サクラソウが舟渡付近から消えたのは、昭和のはじめ、ちょうど板橋区誕生のころであった。
「わが街いまむかし」板橋区

12.其土地の変化、遊覧者の濫採、商売人の過度の採集等の為めに今日にては同地方の桜草は殆採り尽さるるに至れり、其土地の変化、遊覧者の濫採、商売人の過度の採集等の為めに今日にては同地方の桜草は殆採り尽さるるに至れり、
「天然記念物解説」三好学 大正15年

遊覧者や植木屋による乱獲を記述した文献 1,2,4,5,6,7,8,9,10,12
耕地の開墾を記述した文献 1,4
河川改修
工場建設
煉瓦の原料や壁土のために荒木田土を掘り取ったため 9,11
 地域によって個々に事情が異なることもあるが、乱獲に注目した文献が非常に多い。乱獲で数を減らしたところへ、河川改修・荒木田土採取・工場建設など大規模な改変が行われとどめを刺したのが原因ではないだろうか。
 多数の行楽案内に紹介されるようになったこと、荒川の河川改修でもうすぐ消滅するという情報が広まったことも遊覧者の殺到に拍車をかけたのではなかろうか。