足立よみうり   210号 2002年4月5日(金)発行

咲けよ桜草わが新田に
 江戸時代、野新田(やしんでん)といわれた現在の新田一帯は、春になると辺り一面に日本桜草の花が自生して、とても美しかったと古い書物の随所に記されている。新田小学校PTAには「野新田桜草の会」が99年11月に発足した。由緒あるふるさとの花を育てて、子供たちが郷土愛を深めてくれたらと願っている。8日の入学式には、丁度見頃の桜草の花々が、やさしく新1年生を迎える。
かれんな花 子供たちの誇りに
 赤紫色や白いかれんな花を咲かせる日本桜草、学名プリムラ・シーボルティー。野草の持つ清らかな美しさが魅力だ。
 江戸時代から新田一帯は、この桜草の名所として有名だったと種々の文献に紹介されている。それをたどったのが、郷土史研究家の大久保幸治さん(55歳、新田3)だ。大久保さん宅は赤穂浪士の時代から続く旧家で、彼は郷土史を調べるうちに、多くの文献から新田の桜草の存在を知る。なかでも最古の文献は、柳沢信鴻の「宴遊日記」だった。明治時代には夏目漱石「虞美人草」にも。
 大久保さんは「江戸時代の春、この一帯は野原一面が紅色に染まるほどに咲き、舟遊びに訪れた人たちを喜ばせたようです。当時隅田川で捕れた白魚と、桜草を紅白に見立てて土産にして風情を楽しむこともあったよう。明治末期には、荒川堤の五色桜が有名になり、野新田の渡しを行く花見客へ、道端で売ったりもしたようですね」と語る。彼は植物も好きで、再々文献に登場する桜草に興味を持った。「レプリカとして保存したくなりました」。10数年前に「浮間紅」や「浮間白」の野生種を手に入れた。しかし栽培方法は門外不出とみえ、不明なことだらけ。野性なだけに化学肥料を嫌い、世話のかけすぎも好まない難しい植物だと知り、試行錯誤して現在51種類を育てるまでになった。
 桜草は、荒川上流から流れて来た種子が、新田の保水力がある荒木田土を好み繁茂したと見られる。昭和一桁まで余命を保っていたが、乱獲と自然とうたでいつのまにか消滅してしまった。現在、浦和市(現さいたま市)田島ヶ原の自生地は天然記念物として保護されている。

 新田小学校PTAは、創立50周年記念に地域の「旧跡巡り」をした。参加者は、講師の大久保さんから「野新田の桜草」のことを聞かされ感激した。「子供たちのふるさと新田に、この桜草をぜひ復活させたい」こうして99年11月、「野新田桜草の会」(会長は歴代PTA会長=笠原昌俊会長)が発足した。
 現在会員数は約30人。校庭の一角に「日本桜草」コーナーがあり、年3、4回栽培のポイント時期に、大久保さんから秘伝の栽培法を習っている。彼は「レプリカの桜草を育てながら、地域の人へつなげたい思いがずっとあったので、会発足はうれしいことでした」
 事務局長の海老沢洋一さん(48)は、会のホームページまで作ってしまった。3月11日、今年の初花を咲かせた彼は「1年間、世話が焼けましたがその分、咲いた日は『あっ、来たな!』って感動しましたね」
 笠原会長(44)も、今年は初めて花をつけたと大喜びしている。
 「この地域に自生していた桜草を蘇らせて、子供たちにも栽培させたい」と同校でも歴史に残る植物の復活を願う。